2019.09.17

ブルガリ BVLGARI とは|ブランド誕生と時計コレクションの歴史

更新

イタリア・ローマ発祥のジュエリーブランド・ブルガリ。カルティエやティファニーなどとともに、世界5大ジュエラーに数えられる名門ですが、ブランドとして手掛ける分野は広く、1970年代より腕時計のコレクションも展開されています。

さらに2000年には超が付く腕利きのデザイナー、そしてあの有名時計師とも手を組んだことで、ここ数年で本格腕時計ブランドの仲間入りを果たしています。ブランドの誕生背景から、直近のヒット作であるオクト・フィニッシモの発表まで。ブルガリの魅力、一緒に見ていきたいと思います。

目次

本文中の画像は、ブルガリ公式サイトより引用:
https://www.bulgari.com

ブルガリとは?

では、まずはブルガリというブランドについて、ブランドの特徴と、代表的な時計、見ていきましょう。

ブルガリのブランドアイデンティティは何なのか?その答えは公式ホームページにこのように書かれています。

「1884年の創業以来、ブルガリは常に永遠の都、ローマの遺跡や貴重な歴史的建造物をインスピレーションの源としてきました。(略)何十年にもわたり、ローマの美しい魅力がブルガリの見まごうことのないジュエリーモチーフに置き換えられ、確固たるブランドアイデンティティを形作りました。」

と、このように具体的な地名を以って表現されています。ブルガリとはローマの美意識をルーツに持ち、華やかな装飾と大胆なカラーコンビネーションをスタイルとするブランドです。

ブルガリウォッチ

ご存知の通り、基本はジュエリーブランドですので、時計の方でも華々しい色遣いがされているかというとちょっと違うのですが、古代ローマ建築様式をベースとする意識は時計にも脈々と受け継がれています。ここはまた後のストーリーの中で確かめてみて下さいね。

さて、ブルガリが本格的に時計をラインナップに加えたのは、1970年代に入ってからですが、皆さんよくご存じのブルガリ・ブルガリ。それからオクトや、セルペンティなど。

時計を知らない方でも、一度は見たことがあるであろう、特徴的なデザインで、高い人気を得ています。そんな個性的な時計たち。一体どのように誕生したのか。ジュエラーとしての歴史から、時計に参入するまでの流れ、見ていきましょう。

創業者ソティリオ・ブルガリ

創業者であるソティリオ・ブルガリが誕生したのは、1857年のこと。生まれはイタリアではなく、ギリシャのエピルス地方でした。

エピルス地方は、古代ローマ時代より銀細工が盛んであり、ソティリオも銀細工職人の一家に生まれ、その技術を受け継ぎました。

しかしながら、時はイタリア統一運動や、普仏戦争など、ヨーロッパ各地で戦争が行われていた時代。ソティリオ一家も、戦火から逃れるため、やむなくイタリア・ローマへと移住することとなります。

ローマにて創業されたブルガリ1号店

それまで、ギリシャの伝統的な建築様式をデザインに取り入れていたソティリオは、移住の地ローマにおいて、新しい可能性を見出していきます。

特に強くインスピレーションを受けたのは、東ローマ帝国の時代の建築様式でした。ローマでのソティリオの作品は、ギリシャとローマの古典的な建築様式を、見事に融合させたものに。

その華々しく重厚感のあるデザインは高く評価されていきます。特にローマを訪れるイギリスの観光客から圧倒的な支持を集め、事業は成功の一途を辿ったとされています。

この時代にイギリスからイタリアに来る観光客ですから、おそらく貴族クラスの人たちだと思いますけど、最初からハイセンスなものを提供していたのでしょうね。

そして1884年。ソティリオは、ローマ・システィーナに、一軒のジュエリーショップをオープン。ブルガリの誕生となりました。

時代はアールデコへ

19世紀初頭、1800年代の初頭に産業革命が進みました。それは人々の生活を豊かにした一方、粗悪な大量生産品が多くに出回ることとなります。その反動で世間は芸術性や独自性の高いものを求めるようになります。

その結果生まれた風潮がアール・ヌーボー。従来の様式に囚われない、華やかで装飾性の高いものが建築や工芸品、ジュエリーの世界で流行します。

その後1914年から1918年で世界大戦が勃発。それにより大衆の価値感はまた大きく変化。芸術性を抑えた機能的でシンプルなデザインがまた求めらるようになりました。この風潮をアール・デコといい、パリ発のトレンドと言われています。

ジュエリー界ではカルティエがアールデコを牽引

パリと言えばフランス。フランスの名門ジュエリーと言えばカルティエ。先に述べたようなムーブメントをジュエリー界で牽引したのがこのカルティエです。

アールデコのスタイルは1920年代からとされる中、カルティエはそれに先駆けて1914年に名作「タンク」を発表しています。「タンク」はそれまでの曲線的でエレガントなデザインに対し、直線的でシンプルな表情を見せています。

この先見性は評判を獲得し世間はシンプルなアールデコへと流れていく。そんな時代だったのです。

しかし時代は繰り返すもの。このトレンドに待ったをかけ、新しいデザイン観を提案したのがブルガリでした。

アール・ヌーボーの時代はブルガリ創業期、そしてアール・デコの時期は息子たちに代替わりをしていた時期です。

カラーストーンと言えばブルガリ

もちろん世間のトレンドにブルガリも乗っかっていたようですが、ここで大きな方向転換をします。

それは、原点への立ち返り。“フランス的なもの”が流行っていたこのタイミングで、ブルガリはルーツである古代ギリシャそして古代ローマの建築様式にインスピレーションを受けるデザインを多数発表します。

そしてデザインの変更に加え、カラーストーンやイエローゴールドなど、カラフルな高級素材を用いることで、華やかで見栄えのする作品を作り上げました。

それらは市場に絶賛を以って受け入れられ、「カラーストーンと言えばブルガリ」との名声を得ることとなります。

ブルガリ繁栄期【ドルチェ・ヴィータ】

そして1950年代~1960年代。この時期にブルガリは、プレシャスストーンとカラーストーンの大胆なカラーコンビネーションによって世界中で愛されるブランドとして定着していきます。

このブランド繁栄の時代は「ドルチェ・ヴィータ」と称されています。一ブランドの繁栄期に名称がつくとか、存在感が半端じゃないですよね。笑

この時、ブルガリのブティックには豊かな色彩と重厚感を持つジュエリーを求め、映画スターが多く訪れたとされています。エリザベス・テーラーや、オードリー・ヘプバーンなどの著名人がブルガリのファンであることを公言していたとか。

ポップアーティストとして著名なアンディ・ウォーホルは、この時代のブルガリをこう表現しています。『ブルガリのブティックに行くということは、最高の現代アート展に行くようなものだ。』

ニューヨークへ出店|世界展開スタート

こうして、誕生から1960年代まで、ジュエラーとして大きな成功を収めてきたブルガリ。1970年代には、いよいよ時計界に参入することとなります。

ブルガリにとって、1970年代というのは大きな変革期でした。創業者ソティリオの孫世代へと経営がバトンタッチされた時代であり、アメリカ・ニューヨークに海外1号店を作り、本格的に世界展開を始めた時代。

新しい時代の新たな商品群として、腕時計コレクションの追加を図るわけですが、実はそれまでも、時計についてまったく手掛けていなかったわけではありません。

1920年頃から、一点ものの宝飾ウォッチを手掛けていたこともあり、1940年代にはセルペンティの原型、蛇形の時計も作っていたそうです。

初の腕時計コレクションはノベルティだった

しかしながら、コレクションとして加えるには、本業のジュエリーのようには上手くいかず、足踏み状態でした。と、そこに訪れたのが、1969年のクォーツショック。

…またこの事件なんですよ。日本、すごかったんですね。笑

ということで、1975年。まず手始めにと制作されたのは、売り物ではなくノベルティ。麻紐で編んだベルトを装備したノベルティウォッチは、顧客100人にプレゼントされました。

なんとまあ、優雅なお話ですよね。笑

クォーツショックというと、スイスの時計業界を壊滅状態に追いやった一大革命で、これまで紹介してきたブランドはほぼすべて経営不振になったり、途絶えてしまったり、買収されてしまったりと、散々な目に合っています。

それが逆にチャンスなったというのは、ジュエラーだからこそ受けられた恩恵だったのかもしれませんね。

そしてノベルティとして、上客に配られたクォーツ式の時計は、高い評価を得て、その噂が広まります。そうして1977年、いよいよ商品としてデビューする日がやってきます。

ブルガリ・ブルガリ

それがかの有名な「ブルガリ・ブルガリ」。クォーツの他、手巻きムーブメント搭載の発売でした。

この時計のデザイン、手掛けたのは言わずと知れたジェラルド・ジェンタ氏。オーデマ・ピゲにて、ロイヤルオークを手掛けたのが1972年なので、その直後かと思います。パテックフィリップのノーチラスが1976年なので、おそらくそれと同時期に手掛けていたのでしょう。

しかし・・・、なぜブルガリは、ジェンタ氏にデザインを依頼したのでしょうか。

ここからはあくまで予想ですが、ジュエラーとしてトップブランドとなったブルガリ。時計業界に参入する際も、最初からトップになり得るポジションを狙っていたのではないかと。

クォーツショックの頃だと、近代の時計ブランドはほぼ出揃っている時期ですからね。後発も後発です。しかしそこはトップジュエラーとしての誇りがあるわけです。

では、どうやって勝つつもりだったのか。

性能で先行するブランドに勝てるはずはないので、デザインで勝負するのは大前提となります。そして、もう一つ、欲しかったのはおそらく話題性です。

腕時計業界でもトップを狙う

そもそもブルガリが時計に本格参入するというだけでも話題性はばっちりのはずですが、まずは今出てきたように、本格参入、つまり本気なんだってことが伝わらないといけません。そうでないと時計業界から気まぐれのノベルティ扱いをされて今後の勝負がしづらいですからね。

そして、その話題性の大きさに匹敵するだけの十分な、時計としてのデザイン、です。つまりこれはカッコいいというだけでなく、機能面・実用性においても十分なものが求められます。時計のデザインというのは機能美の側面も強いですからね。

デザインと話題性。これらを考えたときにブルガリには大きく二つの選択肢があります。自社でやるのか、外注するのか。

デザインはブルガリも強みとするところですから、より重要なポイントは、話題性ですよね。つまり外注した場合に「広告塔」として価値があるのかどうか。

となった際に、この時代はあの男の最盛期だったわけです。そう、ジェラルドジェンタ氏ですね。

ジェラルド・ジェンタとブルガリ

ジェンタ氏は1968年、ユニバーサル・ジュネーブというブランドの時計・ゴールデンシャドウのデザインを手がけ、国際ダイヤモンド賞という大きな賞を獲得していました。

その輝かしい経歴から、オーデマ・ピゲ、そしてパテック・フィリップからもデザイン依頼を受ける存在に。ブルガリが目を付けたのは、時計界のトップブランドのデザインを手掛けているジェンタ氏のネームバリューだったのではないかと思います。

ただ、ブルガリの時計デザインを依頼するにあたり、ブランドが築き上げてきた“世界観”を壊すものであっては意味がありません。その点においても、ジェンタ氏は非常に適した人物でした。

彼はイタリア系の両親のもとに生まれており、ローマ様式のデザインを深く理解していたのです。

時計界のトップデザイナーであり、同じルーツを持つ人物でもあった。これこそが、ジェンタ氏起用の理由だったのではないでしょうか。

ちなみに多くのブランドに作品を提供したジェンタ氏ですが、彼が立ち上げたブランド『ジェラルド・ジェンタ』は後年、『ブルガリ』に吸収されることになります。候補は色々あったと思いますが、ブルガリとジェンタ氏の関係は傍から見るよりずっと密なものだったのでしょう。

ブルガリ・ブルガリはブランドのアイコンに

そして、彼が手掛けた時計が「ブルガリ・ブルガリ」。それまで風防ガラスを抑えるパーツでしかなかったベゼルに、ブランド名を刻印するという強烈なデザイン。一目でブルガリの時計であることをわからせてしまうインパクト。

ノベルティからスタートしたブルガリの時計は、この強烈なデザインによって花開き、以降、ブルガリの新しいアイコンとして、多くの人に愛されることとなります。こうして、ウォッチコレクションにおいても、成功を収めたブルガリ。

1980年には、時計の聖地スイスにブルガリタイムと名付けられた時計部門の拠点を設置。後にジェンタ氏率いるブランドとしての「ジェラルド・ジェンタ」を傘下に収め、ジェンタ氏の血脈を後のモデルにも色濃く反映。

レッタンゴロ、アショーマ、エルゴン、オクト、そして創業者の名を冠したソティリオなど、多くのヒット作を生み出していきます。

天才時計師ダニエル・ロートとも連携

そして1991年、ブルガリは日本に正式に進出。更なるブランドの展開を図ります。

時計においては2000年以降。天才時計師ダニエル・ロートを傘下に加え、デザインだけではなく、ムーブメントからの時計作りに着手していきます。

ダニエル・ロートという人物は、ブレゲの創業者ルイ・ブレゲの再来とも呼ばれている時計師です。ルイ・ブレゲが作ったトゥールビヨンという、世界3大複雑機構の一つを、初めて腕時計サイズで実現させた人物です。

トップデザイナーであったジェンタ氏に続き、トップ技師であったロート氏への招聘。クォーツショック後という後発にも関わらず、ブルガリの時計が短期間でトップブランドの仲間入りを果たせた背景には専門家との連携がありました。

新たなアイコンはブルガリ・オクト

さて、今後のブルガリ。時計業界では何を目指していくのか?2007年、ブルガリは今後の方向性を感じさせる、興味深い人選を行いました。

選んだのは、ファブリツィオ・ボナマッサ・スティリアーニという人物。当時イタリアを代表する車のブランド、「フィアット」のデザインを担当していた人物です。

ブルガリは新たなデザイナーとしてスティリアーニ氏を起用。その理由は、ジェラルド・ジェンタ氏の時と同じように、ローマ様式のデザインを熟知している点を評価したと言われています。

そして、過去ジェンタ氏がデザインしたモデル、「オクト」のリデザインを依頼。これは、オクトをブランドの新たなアイコンにするためのプロジェクトでした。

現代のオクト、オクト・ローマ、そしてオクト・フィニッシモ。ローマの建築様式をルーツとする美意識を表現したこれらの時計は、高く評価され、名作と言われる存在になっています。

まとめ

とこのように、本日はブルガリの歴史について見てきましたが、今まさに乗りに乗っているブランドですよね!

この勢いは、ジュエラー時代からローマ様式にこだわった作品作りを行い、時計においてもブレることなくそのスタイルを貫いてきたことから生まれています。

ローマの歴史的建造物はブルガリを魅了し、ブルガリはそれをジュエリーや時計で表現することで人々を魅了する。これこそが、まさにブルガリの魅力なんですね!

時計においては、2017年のオクト・ローマ発表から、2018年のオクト・フィニッシモ。そして2019年のオクト・フィニッシモ・クロノグラフGMT。

本格的な機械式時計メーカーとして、今後も目を離すことが出来ないブランドなのではないかと思います。

特にフィニッシモシリーズは、薄型のムーブメント開発から自社で行っており、これからの時計作りにも期待感を持たせてくれる名作ですよね!

美しいデザインに、完成度の高い機械まで手に入れたブルガリ。今後のラインナップも、とても楽しみにしたいと思います。