※この記事はウォッチ買取応援団としてYoutubeにアップした動画、「リシャールミルの歴史|なぜ高くても選ばれるのか?愚直に「理想のみ」を形にする最新最高のエクストリームウォッチ!」の書き起こしです。
本日は、リシャール・ミルの歴史について、お送りして参ります。リシャール・ミルの歴史を辿りつつ、『適正価格である』と言われる意味を探っていこうと思います。
目次
- リシャール・ミルとは何者なのか
- 機械仕掛けに目覚めた少年
- 時計メーカーでセールスを担当
- コンセプターとしての初仕事
- ルノー・エ・パピとの出会い
- 最高・最新を求めたプロトタイプ
- ブランドデビュー作の衝撃
- 常軌を逸したラインナップ
- まとめ
ブランドの誕生は2001年のスイス。ブランド名にもなっているリシャール・ミルという人物によって創業されました。
リシャール・ミルというと、まず最初に話題に上がるのはお値段。2001年最初のモデルの価格は1,900万円。現在のラインナップも、数千万円が普通です。百万円代のものは中古でもほぼなく、反対に1億を超えるものの方が多い。
3大ブランドであるパテック・フィリップ、オーデマ・ピゲ、ヴァシュロン・コンスタンタンでも、なかなかこの価格帯のものはありません。
と、非常に強気な価格設定ではありますが、高すぎるかというとそんなことはない。時計業界のプロたちの見解によると、その価格設定は極めて適正であると。1億円出す価値がある時計として、認められているんです。
リシャール・ミルとは何者なのか
では、まずはブランドの概要から。リシャール・ミルが最初のコレクションを発表したのは2001年のこと。創業者はリシャール・ミル。
いつもこのブランドヒストリーシリーズでは、創業100年以上のものを取り上げることが多いのですが、かなり新しいブランドになります。
リシャールは、フランスの大学でマーケティングと経営を学んだ後、営業職として時計メーカーへ就職。その後商社に移り、ディレクター、部門長を経て、2000年に独立。ブランドを立ち上げるに至ります。
この経歴から見てわかる通り、リシャール・ミルという人物、時計師でもなければ、時計デザイナーでもありません。通常時計メーカーの発祥というと、天才時計師から始まることが多い。
ジャン・アドリアン・フィリップ、ジャン・マルク・ヴァシュロン、ジュール・オーデマ、アブラアム・ルイ・ブレゲ、アドルフ・ランゲなどなど。名門と呼ばれる時計ブランドの始まりは、皆優れた時計師からです。
1800年代中盤以降は、組立工や修理工、貿易商出身のブランドも出てきますが、やはり時計の構造自体に触ることが出来た人物ばかり。例えばオメガのルイ・ブランは組立工出身。セイコーの服部金太郎は商人出身ですが、修理修繕にも対応していました。
ではリシャール・ミルは一体何者なんだと。彼は自らをコンセプトを作る人間である、コンセプターと称しています。
時計の機械を作ることはできない。デザインもできない。しかし、理想の時計とはこういうものだと。コンセプトを描くことなら誰にも負けない。と、これこそが、リシャール・ミルというブランドのアイデンティティになっているわけです。
機械仕掛けに目覚めた少年
さて、ではコンセプターとしてのリシャール・ミル。どのようにして作られていったのでしょうか。複数のメディアのインタビューにおいて、リシャール・ミル本人が語っていたのは、少年期の思い出でした。
彼が初めて機械式時計というものを知ったのは10歳の時。父親から譲り受けたロンジンの時計だったそう。しかし、その時計の寿命はたった1日だったと。
どういうことかというと、分解しちゃったらしいです。リューズを巻くと、秒針が動き出し、時を刻む。その構造に強い興味を持ち、気が付くと裏蓋を開けていたそうです。
と、そこにあったのは、細かく脈打つように動く無数の歯車と小さな部品。リシャール少年は、リューズからの動き一つ一つを確認するように分解を進め、遂にはすべてバラバラにしてしまったとのこと。
父親にはひどく怒られたそうですが、これ以来機械式時計に魅力を感じた少年は、後に自動車や航空機といったものにも強い興味を示すようになったそうです。
ちなみに分解してみたものの、その構造について理解することはできなかったと。もちろん組み立ての知識があるわけはなく、工具らしい工具など持っていませんので、そのまま元に戻すことが出来なかったそうです。
リシャール少年、機械に興味を持ったものの、この時既に作り手にはなれないと悟ったのかもしれませんね。
時計メーカーでセールスを担当
18歳になると、フランスのブザンソン工科大学へと進学しますが、専攻したのは売り手としてプロを目指すためのマーケティングと経営でした。
卒業後はフランスの小さな時計メーカーフィノールで営業職に従事。南米とスペインのセールスにおいて才覚を発揮。その後、フィノールは総合商社マトラに統合され、リシャールはフィノール、イエマ、ジャズの3ブランドを担当するディレクターに就任します。そこでは、政府相手に10万本の時計を売るという荒業もやってのけました。
また、その後、マトラの時計部門はセイコーに統合されることに。この時期リシャールも日本の職人と仕事を共にし、ミリ単位での機能へのこだわりに感銘を受けたそうです。
そしてこの頃から、リシャールにある気持ちが芽生えます。それが、もっとこういう時計を作ればいいのにという、理想を求める素直な気持ちでした。
コンセプターとしての初仕事
実際、時計の売り手でありながら、開発チームに対し、『これはもっとこう作るべきだ!』とか、『こんな腕時計があったらいいのに!』とか、幾度となく口出ししていたとのこと。
開発チームの多くはこれを煙たがっていたものと思いますが、そこに目つけるものもあり。だったらやってみろよ!ということで、リシャール・ミルは初めて時計作りのプロジェクトにアイデアを出すことが許されました。
この時担当したのは冒険ウォッチ。イエマという、フランス軍用の時計を作っていたことでも知られるブランドの腕時計。
小型GPSなどまだなかった時代。極地探検において、方角を知るためには天体観測の知識と、丈夫で正確、そして読み取りやすい腕時計が必要でした。特に北極と南極は方位磁針が使えないので、より信頼できる腕時計が必要不可欠でした。
そこでリシャールは、表面に北極用、裏面に南極用の文字盤を配置した時計を提案。ケース素材にはチタンを用いて軽量化し、風防は丈夫で見やすいサファイアクリスタルに。ムーブメントは、マイナス40度でも正確に時を刻む高性能なクォーツ式を選択。
イエマのメンバーは、リシャールのコンセプト通りにその時計作りに着手したものの、皆そんなに上手くはいかないだろうと半信半疑だったと言います。
しかし、出来上がった時計は、ジャン・ルイ・エティエンヌ博士の冒険に携行され、見事南極大陸横断を成し遂げました。
これこそがまさにコンセプターとしてのリシャール・ミルが目覚めた瞬間でした。
ルノー・エ・パピとの出会い
そしてそこから2年後の1991年。30代後半になったリシャールは、その後の運命を共にする盟友と出会います。ムーブメントメーカー ルノー・エ・パピのCEOファブリス・デシャネル。
ルノー・エ・パピというのはスイス・ジュラ地方に拠点を構えるメーカー。複雑機構の設計・製造に強く、世界で初めて自動巻きトゥールビヨンを作った実力者です。
1992年よりオーデマ・ピゲ傘下に入り、同ブランドのコンプリケーションやコンセプトモデルの製造を行っています。
リシャールはこの時期、フランスの名門宝飾店モーブッサンで時計・ジュエリー部門長を務めていました。イエマのプロジェクトの後、短期間で一体何があったのかというと、いつも通り時計を売りに行った先で、モーブッサンにヘッドハンティングされたんですね。
当時はクォーツショックがひと段落して、再び機械式時計の需要が高まっていた時期。宝飾業界でもブルガリが新たに時計事業へと参入し、カルティエも本格的に時計作りを始めていた時期です。
モーブッサンも時計の知識に長けている人材を求めていたのでしょう。リシャールは約8年間働くことになりますが、ここで多くの経営者たちと出会い、ラグジュアリービジネスの世界を学びます。
中でもルノー・エ・パピを知ったことは、彼にとっての大きなチャンスでした。
きっかけは、普段から機械式時計の理想について熱く語るリシャールを見た友人の紹介。『君はルノー・エ・パピと仕事をするべきだ。』そう勧められ、出会うことになった人物こそCEOファブリス・デシャネルでした。
そしてファブリスと会話を交わすこと数分。共通の理想があることを確信したリシャールは、『この人と最高で最新の時計を作りたい』と、素直にそう思ったそうです。
一方のファブリス。実はスイスの時計業界にうんざりしていたところでした。伝統を守るというのを言い訳に、結局は18~19世紀の焼き増しでしかない。機械式時計はもっと正当な進化を遂げるべきだ。そう思っていたんです。
そこに現れた風雲児リシャール。彼と描くスイス時計の未来に、きっと興奮したことでしょう。
最高・最新を求めたプロトタイプ
この出会いから親交を深めていった2人。1998年には1つのコンセプトを描き上げます。リシャール・ミル ブランドとして最初の作品となるRM001という時計です。
ケースはホワイトゴールド製のトノー型。ムーブメントは手巻きのトゥールビヨン、パワーリザーブインジケーターおよび、ゼンマイのトルク状態を知らせるトルクインジケーターを搭載するというもの。
トゥールビヨンという機構は、3大複雑機構に数えられる難解な機構です。が、これは心配なし。ルノー・エ・パピにとって、得意分野です。
しかしここに2つのインジケーターを備えること。そして何より、ネジ1本から全く新しいものを作る。これが大変だった。
リシャール・ミルはデビュー作から完全にオリジナルなものを作ろうとしたんです。結果、プロトタイプが出来上がったのは構想から2年後の2000年のこと。全てがオリジナルで作られた作品を見た時は、嬉しくて涙が出たそうです。
がしかし、なんとリシャールの判断はやり直し。トルクインジケーターの一部が、満足できるクオリティではなかったそうです。妥協して販売してしまうことも出来たことでしょう。しかしリシャールはそれをしなかった。
世界一とも言えるルノー・エ・パピと作る時計。そこには0.1%の不満もあってはならないと。強い信念を持っていたんですね。
さらに1年の開発期間を経て、ようやく完成品が出来たのは2001年でした。
ブランドデビュー作の衝撃
こうして100%の完成品を手にしたリシャール。2001年のバーゼルワールドの会場で、数名の知人にその時計を見せて回ったそう。その際、パフォーマンスとして見せたのが、時計を渡す際、手元から床に落とすということ。手元が狂ったふりをして、おっと!みたいな感じで、わざと床に落とすんです。
それを見た人は、かなり驚いたことでしょう。なにせその時計はトゥールビヨンです。
トゥールビヨンというのは、時計の精度を司る部分、テンプと言いますが、それそのものを回転させる構造です。これによって姿勢差の変化による精度変化が起きにくくなっているわけですが、回転させるために半中空状態に部品を組むため、ちょっとした衝撃でも壊れてしまうんです。
車のドアを閉めた時の衝撃で壊れたとか、式典で拍手をしたら壊れたとか。冗談じゃなくそのくらい繊細なものなんですよ。それを床に落とすというのは、もう壊しにかかっているようなもの。リシャールさん、また分解する気かと。直せなくなるぞと。
しかし、最高・最新の時計として仕上げられたその時計、他とは異なっていた。新しい人に見せるたびに床に落とされても、正常に動き続けていたんです。業界のプロや愛好家など、時計に深く関わっている人ほど、この凄さを理解できたことでしょう。
1,900万円という高額にも関わらず、ファーストロット17本は、瞬く間に完売してしまいました。ブランドとしてのリシャール・ミル。衝撃的なデビューを飾った瞬間でした。
常軌を逸したラインナップ
以降、普通には考えつかない時計を次々とラインナップしていきます。全部は無理なので、一部ピックアップにて見ていきましょう。
2001年デビュー作RM001を改良したRM002。世界で初めて地金にチタンを用いたトゥールビヨンを搭載。文字盤が取り払われ、機械がむき出しに。
2002年そこに第2時間帯表示を追加したRM003。地金の他、ブリッジにもグレード5のチタンを使用。
2003年トゥールビヨンと同等レベルの複雑機構スプリットセコンドクロノグラフを追加したグランドコンプリケーションRM008-V1。この2つの機構を同じ時計に収める技術は、世界でも数社しかできない神業。
2004年可変慣性モーメントローターを備えた自動巻きモデルRM005。使用者のライフスタイルに合わせて、自動的に巻き上げ効率を変えるハイテク設計。
同じく2004年FIレーサー フェリペ・マッサとのパートナーシップモデルRM006。ムーブメント地金にカーボンナノチューブを使用し、時計の重さを43gという超軽量に仕上げたモデル。レース中の激しい重力変化にも耐える構造。
2005年フェリペ・マッサ第二弾。ケース素材に新開発のALUSICを使用。時計の重さは29gにまで軽量化。
2007年フェリペ・マッサ第三弾。ケース素材にカーボンTPT、シリコンナイトライド、レッドクォーツTPTなどの新素材を用い、デザイン面にさらなるユニークネスを求めた作品。
2008年パリの有名ジュエラー・ブシュロンのアニバーサリーイヤーを祝ってのコラボモデル。歯車の内周素材にオニキスやタイガーアイなど薄く切った半貴石を使用。
2010年テニスプレイヤー ラファエル・ナダルとのパートナーシップモデルRM027。ナダルは、全仏オープン、全英オープン、全米オープンと試合中に身に付け、すべて優勝。壊れやすいトゥールビヨンを、本格的にスポーツの世界に持ち込んでしまった伝説的な作品。ナダルが第二の肌と呼ぶ着け心地の良さも魅力。時計の重さはストラップまで含めて、20g以下という衝撃。
という感じで、この先も凄まじい時計、たくさんあるんですが、目が周りそうなので、後ほど公式サイトで見てみてください。
まとめ
といったところで、本日は、リシャール・ミルの歴史と魅力について、見てきました。
リシャール・ミルの時計作りは、最高であり最新のコンセプト以外はなにもない、ネジひとつすらない状態から始まります。故に何の制約も受けることなく、描いた理想を形に出来てしまうということですね。
リシャール・ミルという一人の男の理想なのかもしれませんが、買う人がいてこそブランドが成り立つわけで。言い換えると、いつも理想を追い求める業界人や愛好家の思いを代わりに表現にしているのが、リシャール・ミルというブランドなのかもしれませんね。