2020.02.28

名作誕生秘話!ブレゲ マリーン の高貴な佇まい そのルーツは大航海時代にあった!

※この記事はウォッチ買取応援団としてYoutubeにアップした動画、「ブレゲ マリーン の誕生ストーリー|時代を超えてタッグを組んだ2人の天才とは?」の書き起こしです。

本日は、ブレゲ マリーンの歴史について、お伝えしていこうと思います。腕時計5大ブランドの一角であるブレゲ。ヨーロッパの王侯貴族たちに愛され、上流階級の時計として確固たる地位を築き上げてきたブランドです。そのブレゲが、1990年に発売したモデルが、今回ご紹介する『マリーン』です。

目次

単純に格好良い時計で、大好きなモデルの一つではあるんですが、そういえばあまり詳しくは知らないかも。ドレスウォッチでも、スポーツウォッチでもない。また流行りのラグジュアリースポーツとも異なる、独特の雰囲気を漂わせるこの時計。単に高級感や上品という言葉だけでは言い表せない、この高貴な存在感のルーツは一体どこにあるのだろうか。

そんな疑問を持って調べてみたところ、その誕生背景には2人の天才の姿がありました。由緒正しきブランドから生まれた、現代の貴族時計『マリーン』。その誕生ストーリーに迫って参ります。

ブレゲの歴史

さて、まずはブレゲというブランドについて、簡単におさらいしていきます。

ブレゲの創業は、1775年。スイス生まれの時計師アブラアン=ルイ・ブレゲが、フランスのパリで工房を構えたことが起源となります。そこから、実に240年以上の歴史を持つ、名門中の名門ブランドです。

ブレゲの歴史上の顧客リストには、ヴィクトリア女王、ナポリ王妃、マリー・アントワネット、ロッシーニ、ナポレオン・ボナパルトなど、そうそうたる人物たちが名を連ねており、多くの王侯貴族たちに愛されていたことが分かります。

創業者の没後、1870年頃から約100年間に渡り、ブランドとしては半休眠状態になった歴史もありますが、1970年に宝石細工師ショーメ兄弟と、現代の名工ダニエル・ロートの手によって復活。その後、バーレーンの投資会社インベストコープの傘下を経て、現在はオメガなどと同じスウォッチグループによって存続が保たれています。

ブレゲの歴史については、別動画にてご紹介しておりますので、ここで触れるのはこのくらいにしておきますね。気になる方はぜひそちらの動画も観てみてください。

→ブレゲ の歴史動画はこちら
天才時計師ブレゲ!時計の歴史を200年早めた男の情熱|ブランド時計の歴史

ブレゲ マリーンとは?

そして、今回のお題であるマリーンというモデル。これはいつ発売されたのかというと、1990年です。半休眠状態だったブランドが復活を遂げ、バーレーンの投資会社インベストコープの傘下に収まっていた時代の作品なんですね。ブランドとして、新時代を迎えたあとの新作という位置づけです。

しかしながら、ブレゲの公式サイトを見てみると、このように書かれています。

“ フランス海軍のマリン・クロノメーター(航海用精密時計)の製造者としてアブラアン=ルイ・ブレゲが築きあげた偉大な遺産からヒントを得た「マリーン」ウォッチ “

どうやら、新生ブレゲとして復活を遂げた後の新コレクションではあるものの、その原点は、創業者アブラアン=ルイ・ブレゲが作ったマリン・クロノメーターという時計にあるようです。

モデル誕生に関わる人物1:アブラアン=ルイ・ブレゲ

そこで、冒頭でお話した、マリーン誕生背景に関わる偉大な人物、1人目のお話をしていきましょう。1人目は、言わずもがな、ブランドの創業者アブラアン=ルイ・ブレゲです。

時計の歴史を200年早めたと言われる、天才時計師アブラアン=ルイ・ブレゲ。彼の偉大な発明は、腕時計が登場する遥か以前の1780年。自動巻き機構の開発からスタートします。

ブレゲは、そこから1820年までの40年間で、衝撃吸収機構であるパラシュートや、ブレゲヒゲゼンマイ、3大複雑機構の1つであるトゥールビヨン、ブレゲ針、スプリットセコンドクロノグラフ、、、などなど。数えきれないほどの発明を世に送り出しました。

その中で、彼自身の発明ではないものの、フランスという国に認められていた技術があり、それがマリン・クロノメーターという時計の製造技術です。

マリン・クロノメーターとは、海上で自分の船の位置を確認するための時計です。この時計について説明するには、ブレゲの創業期から、さらに時間を遡る必要があります。

大航海時代に生まれた「マリン・クロノメーター」

時は、15世紀後期の大航海時代。海を制するものが世界を制した時代。

航海士たちは、自船の位置を知るために、正確な経度測定を必要としていました。経度の測定は、太陽の位置と、時計が指す時間を用いて行います。しかし当時、過酷な海上の気候でも常に正確に時を刻み、船の絶え間ない揺れにも耐え抜く時計というものは、存在しませんでした。

そこから16世紀17世紀と、長い間、船に搭載できる性能を持つ時計は開発されることはありませんでした。その間、今では信じられないほどの船の事故があったといいます。中でも大規模だったのが、1707年のイギリス地中海艦隊の事故。軍艦4隻が、嵐の中で座礁し、沈没。二千人もの乗員が死亡する大参事となってしまいました。

この史上最大級の海難事故について、イギリス海軍は、正確な経度測定が出来なかったことが原因と報告。それを受けたイギリス政府は、1714年、「経度法」を公布し、船上でも正確に時を刻む時計『マリン・クロノメーター』の開発に2万ポンドの賞金を出すことを発表。フランス政府もここに続きました。

がしかし、それまで200年以上も作れなかったものがそう簡単に出来るはずもなく。ガリレオやニュートンなど、教科書に載っているような偉人たちが豊富な知識を持って挑むも、いずれも失敗に終わってしまいます。

ようやく兆しが見えたのは、イギリス政府の経度法公布から40年以上が経過した1748年のこと。フランス人時計師ピエール・ル・ロワが、マリン・クロノメーターの原理を発明。1764年には、モノとして完成が成されました。

そこからさらに10年後。1775年には、イギリスの技術者ジョン・アーノルドとトーマス・アーンショウが量産に成功し、以降、マリン・クロノメーターは、イギリス海軍の軍艦に装備されるようになりました。

で、この話とブレゲ。どこに関連があるのかというと、イギリスに続いてマリン・クロノメーターの開発を進めていたのが、フランスであるということ。

アブラアン=ルイ・ブレゲがフランス王室御用達の時計師として、自身のブランドをスタートしたのは1775年。イギリスがマリン・クロノメーターの量産に成功したのと同じ年です。つまりこの頃、フランス側でマリン・クロノメーターの開発を行っていたのは、アブラアン=ルイ・ブレゲだったのではないか、ということ。

これを裏付けるものとして、1796年までにいくつかのマリン・クロノメーターを製作していたことが、ブランドの公式記録として残っています。さらに1815年には、フランス海軍省認定の時計師という称号を得ており、フランス軍用のマリン・クロノメーターを定期納品をしていたという事実もあります。

ブレゲが1775年の段階で、マリン・クロノメーターの開発にどの程度関わっていたのか。それについては、想像の域を超えません。しかしブレゲは、イギリスでマリン・クロノメーターの量産に成功させたジョン・アーノルドと交友関係を持っていた、との記録もあります。

共にマリン・クロノメーターの完成を目指し、技術を競い合ったライバル。後に両者のマリン・クロノメーターは、イギリスとフランスの軍艦にそれぞれ搭載されることになった。そんな友情と成功のストーリーを想像をしてみると、なかなか熱いものがありますね。

ちなみに、本題からは脱線しますが、ジョン・アーノルドは、後に息子であるロジャーを、ブレゲの元に丁稚奉公させています。ブレゲの元で時計師としての腕を磨いたロジャーは、後に自身のブランドを立ち上げるまでに成長。

アーノルド&サンと名付けられたこのブランドは、一時期休眠していたものの、1995年に復活を遂げ、話題となりました。なかなか個性的な時計がラインナップされていますので、興味のある方は、ぜひ時計店で探してみてください。

そして、時代をグッと現代に戻しまして、次の話題に移ります。腕時計としてのマリーンが登場した1990年のお話。この時、ブレゲというブランドは、100年に渡る休眠から目を覚ましたばかり。投資会社インベストコープの傘下で、新しい旗艦モデルとなり得る時計の企画を練っていました。

腕時計としてのマリーン誕生

マリーンが発売されたのは、1990年なので、おそらく1980年代中盤~末くらいのことだったのではないでしょうか。その頃の時計業界は、クォーツウォッチ到来の波がひと段落して、再び機械式時計の価値が見直され始めていたタイミング。ラグジュアリースポーツという新たなジャンルが新時代を牽引し、かつての名作と呼ばれた機械式ウォッチが、次々に復活を果たしていた時代です。

そこでブレゲが企画したのが、『若い世代に訴求する新しいコンセプトを持つ時計』の開発。かつてルイ・ブレゲが手掛けたマリン・クロノメーターを、腕時計として現代に蘇らせ、新生ブレゲの旗艦モデルとすることでした。

それを実現させるためには、ブレゲが持つクラシカルなイメージに加え、時代のトレンドであったスポーツの要素を融合させる必要がありました。

モデル誕生に関わる人物2:ヨルグ・イゼック

と、ここで白羽の矢が立ったのが、マリーン誕生に関わるもう一人の人物。時計デザイナーであるヨルグ・イゼックです。

ヨルグは、1975年~1979年までロレックスに在籍。それと同時期、若干24歳にしてヴァシュロン・コンスタンタンの222、これはオーバーシーズの前身とされる時計ですね、これをデザインしたことで名を挙げて独立。その後クレドールのエントラータを手掛けた後、ブレゲのマリーン開発チームに招聘されました。

ヨルグは、ブレゲとの仕事でさらに脚光を浴びることとなり、時計業界に広く知れ渡る存在になるわけですが、なぜブレゲは彼を選んだのでしょうか。その理由について、腕時計専門誌Chronosでは、このように考察されています。

“ 人間工学的で、ややもするとエキセントリック。これがヨルグ・イゼックのデザインに対する世評である。(中略)しかし、ロンドンの彫刻学校で学び、ロレックスで時計デザインの基礎を学んだ彼は、定石に極めて忠実という一面を持っている。(中略)彼は過剰にならないスポーティーさを、顧客がブレゲに期待するパッケージングの範囲で盛り込んでみせたのである。 “

ブレゲからすると、こいつ、わかってるな!と思わせる仕事が過去の作品にあったのでしょうね。それが222だったのかエントラータだったのかは、わかりませんが。

かくして、ヨルグが手掛けた腕時計としてのマリーンは、1990年に登場。そのデザインは、防水性能を持たせたサンドウィッチ構造。トレンドのサイズよりも大きなケース径。そしてガード付きのねじ込みリューズを装備。というものでした。

言葉として並べると、すべてスポーツウォッチとしての要素です。しかも、すべて時代の先を行くもの。サンドウィッチ構造は、2005年にウブロが採用することになりますし、リューズガードはこのマリーン以降、金無垢ウォッチでも普通に使われるようになりました。ケース径の大型化は、90年代後半、パネライから始まるデカ厚ブームに先駆けたものとも言われています。

しかし、マリーンのデザインの凄さはそれだけにあらず。「ギョーシェ彫り文字盤」「ブレゲ針」「コインエッジ」など、あくまでも主題として掲げられているものが、ブレゲの伝統的なデザインであることに気付かされます。

まさに伝統とトレンドの融合から生まれた時計。故に、ドレスウォッチでも、ラグジュアリースポーツでもない。

マリーンが放つ独特な高貴さの正体は、伝統を作り上げた天才時計師アブラアン=ルイ・ブレゲと、表現者としてブランドアイデンティティを形にした鬼才ヨルグ・イゼックによる、時代を超えたタッグから生まれたものだったというわけですね!

以降、マリーンシリーズは、2018年に発表された第3世代へと引き継がれ、登場時と変わらぬ人気コレクションとして君臨し続けています。

まとめ

といったところで、本日はブレゲ マリーンの歴史について、お送りいたしました。いやー、マリーン格好良いな。現行モデルもいいですが、旧世代のモデルもいい!一生に一度は手にしたい時計だと思いましたね。ちょっと、本気で考えようかな、、、。笑