※この記事はウォッチ買取応援団としてYoutubeにアップした動画、「ブライトリング クロノマットの魅力|ブランドを復活に導いた伝説の航空クロノグラフ」の書き起こしです。
第二次世界大戦中の1942年に登場し、 パイロットクロノグラフという新たなカテゴリーを作り出したモデル。ブライトリング・クロノマットのご紹介です。
目次
クロノマットは、第二次世界大戦中の1942年に登場し、 パイロットクロノグラフという新たなカテゴリーを 作り出したモデルです。
1952年以降は、上位機種ナビタイマーが 発売されたことで、一時的に製造がストップ。 再び市場に復活したのは、1984年のこと。 その際、ブランドそのものも復活させてしまった。 まさに伝説的な時計なんです。
特徴的なのは、何と言ってもプロ仕様のスペック。 購入してすぐ、そのままプロの現場で使える。 時計ではなく、計器といったりもしますよね。
そして大ぶりでイカツイ、男らしさ全開のデザイン。 これもかなり特徴的。 他に代わるものがない存在です。
さてではこのクロノマットという時計、 いかにして登場し、 いかにしてブランドを復活させるほどの ヒットモデルになっていったのでしょうか。 そこにはある仕掛け人の存在がありました。
ブランドの歴史
では、まずはブライトリングというブランドについて、 簡単におさらいしていきたいと思います。
ブランドの創業は1884年の スイス・ジュラ地方・サン=ティミエ。 スイスウォッチ伝統の地です。 副業で時計作りを行う農家に生まれた レオン・ブライトリングは、二十歳を過ぎたころ、 本業として時計作りに携わりたいと 思うようになります。
特に興味が強かったのが、 当時軍用として使用されていたクロノグラフ。 時計の専門知識に磨きをかけたレオンは、 1884年自身の時計工房を開業。 これがブライトリングの誕生となります。
創業初期はクロノグラフ専門で時計づくりを行い、 各国の博覧会に出展。 数々の賞を獲得することで、 その知名度を上げていきました。
また、レオンは時計と同じく 大空への憧れも強く持っていたことから、 航空機用のクロノグラフに注力。
“ 飛行機は今後さらに発展すべき産業だと思う。 だから私は時計や計器のメーカーとして、 それを支えていくつもりだ。 “ という言葉を残し、 ブランドは後世に引き継がれていきました。
ブランドの歴史詳細については、過去動画にてご覧いただけますので、 下記よりご確認ください。 ↓↓↓
航空時計のパイオニア
結果、どうなったかというと、 皆さんご存知の通りですね。 航空クロノグラフのパイオニアと言えば、 間違いなくブライトリングの名前が挙がるはず。
その根拠になったのは、1942年に発売された 今回のピックアップモデル・クロノマット。 そして1952年に発売されたナビタイマー。 これらの存在があったからです。
では、なぜこれらは航空クロノグラフの パイオニアと呼ばれる所以になれたのか。 そこには、ブライトリングのクロノグラフが持つ、 3つの特徴があります。
まず1つは、スイッチ類が分離していたこと。 今でこそ当たり前となった、スタートとストップ のボタンを別々に設ける作りは、 1923年にブライトリングが開発したものなんです。 これにより、操作性が大幅に向上。 飛行中の誤操作が減ることは、 とても大事なことですよね。
そして次に、回転計算尺。 ベゼルを回すことで四則演算が出来るという機能。 これも当時のパイロットにとって、 非常に便利な機能でした。
当時はまだ小型の電卓がなかった時代です。 残りの燃料から巡航可能距離を割り出すには、 操縦をしながら暗算しなければならなかった。 クロノマットに搭載された回転計算尺は、 ベゼルを回すだけで計算が出来てしまうわけです。
暗算で気を散らすことがない。これも安全飛行にも繋がったことと思います。
そして3つ目は、 英国軍のオフィシャルサプライヤーであったこと。 この経験から、 過酷な戦場で求められる計器のスペックを、 熟知していたんです。
ということで、1942年。 この3つの強みを持って生み出されたクロノマット。 航空クロノグラフにおいて、 他の追随を許すはずがありませんよね。
唯一、その存在に取って代わったのは、 1952年に登場した同ブランドのナビタイマー。 クロノマットの回転計算尺を、 航空計算に特化して組みなおしたことで、 ブランドの主力はナビタイマーへと移ることに。
そこからクロノマットはモンブリランと名前を変え、 細々と販売が続けられる形になってしまいました。
傾いたブランド経営
ここまではクロノマットの歴史第一章 といったところでしょうか。
実は今現在、皆さんが良く知るクロノマットは、 1942年登場の系譜とは、 まったくの別物なんですよね。 クロノマット第二章の幕開けは、 1984年になります。
1970年代、ブライトリングというブランドは、 経営不振に陥り、風前の灯状態。 これは1969年に登場したクォーツウォッチ。 この影響がとにかく大きかった。
クォーツウォッチの登場後は、 スイスの時計ブランドほぼすべてが 大きな打撃を受けています。 ブライトリングも例外なく、その影響を受けました。
同年、ブライトリングはホイヤーなどと組んで、 世界初の自動巻きクロノグラフを完成させましたが クォーツウォッチのインパクトが強すぎたんですね。 発売からわずか数年の間に、 製造中止に追いやられてしまいました。
ブランドを復活に導いた男
そのピンチを救ったのが、 アーネスト・シュナイダーという人物。 ブライトリング家から経営を継承し、 4代目当主となった男です。
アーネストは、元スイス軍通信司令部の将校。 除隊後は家業である時計メーカー シクラを継ぐことに。 軍で培ったエンジニアとしての経験と、 持ち前のリーダーシップを発揮し、 従業員数500人ほどの企業に育て上げた。 まさにそのタイミングで、ブライトリング三代目当主 ウィリー・ブライトリングと出会います。
ウィリーにブライトリングを託されたアーネスト。 ブランド復活のために取り組んだのが、 アイデンティティである航空ウォッチの復活。 ブライトリングに限らず、多くのブランドは クォーツショックにかき乱され、 商品の幅を増やし過ぎていたんですね。
なので、まずはちゃんと整理しようと。 加えてブライトリング、 相当にピンチだったのでしょう。 ナビタイマーの部品や工作機械も売却していたとのことです。
普通に考えたら、ここで諦めそうなものですが。 アーネストは諦めなかったんですね。 ナビタイマーがダメなら、「もう一つあっただろ! ほら、えっと、あれ!クロノマットだよ!」と。
クロノマット復活 もう一人の仕掛け人
クロノマットの復活に着手します。 結果、どうなったかというと、 1984年に復活したクロノマットは、 イタリアで大ヒットモデルになりました。 なぜスイスではなく、イタリアだったのか。
それはイタリア空軍フィレッチェ・トリコローリの 協力を得ての登場だったため。 という説が一般的なんですが、 実はここには、影の協力者がいたんです。
その男の名は、ルイジ・マカルーソ。 後にスイスの名門ジラール・ぺルゴを 率いることになる人物。 イタリア最大の時計代理店トラデマのCEOです。
ルイジは、経営以外に建築にも強い関心を持ち、 プロダクトデザインの腕にも長けていた人物です。 特にエルゴノミック(人間工学)を取り入れた デザインを好んでいました。
例えば ジラール・ぺルゴ ヴィンテージ 1945 のデザインは、彼の代表的な作品の一つです。 レクタングルケースのラグを伸ばし、 大ぶりでも装着感に配慮したデザインは まさにエルゴノミック。 長いラグを持ちながらも、 ケースとベルトの隙間が開かないようにも工夫され 着け心地とエレガントを両立させています。
このルイジ・マカルーソこそが、 クロノマット復活の仕掛け人だったと。 ブライトリングを継いだアーネストと イタリア軍を繋ぎ合わせ、 クロノマットのスケッチも描いて見せた。 こうして出来上がったのが、現在のクロノマットの 原型にあたるRef.81950だったというわけです。
ルイジ・マカルーソの狙い
なぜルイジ・マカルーソは、 ブライトリングに手を貸したのか。 その理由は推察になりますが、おそらく2つあります。
1つは、機械式クロノグラフを 求める声があったため。
クォーツウォッチが世を席巻した時代が終わり、 80年代はまた機械式時計を求めるニーズが 少しずつ復活していた時代です。 いち早くそこに反応したのではないでしょうか。 そしてもう1つは、 ミリタリーウェアのファッションアイテム化されました。
モッズコートやMA-1、G-1、B-3などの 軍用アウターウェアが、 ファッションとして取り入れられていたこと。 この流れは1960年代後半から、 ヨーロッパの若者を中心に広がっていました。
イタリアというと、やはりオシャレには敏感。 ミリタリーウェアが、 ファッションとして使われるのであれば、 ミリタリーウォッチも当然受け入れられるはずだと。 そう読んだのではなかろうか。
実際ルイジは、 クロノマットのベルトバリエーションを増やし、 ファッションアイテムとしての感覚も 取り入れていたそうです。
あくまで推察ではありますが、 この2つの理由から、ブライトリングという本格的な プロフェッショナルブランドとイタリア軍、 そして自身のデザインをかけ合わせた作品には、 絶対的な自信がありました。
そんな気がしませんか? 復活した新生クロノマットの大ヒット。 これは決して偶然ではなく、 ルイジの狙い通りだったのではないでしょうか。
後にルイジは、スイスの名門 ジラール・ぺルゴから相談を受けた際、 『機械式クロノグラフを作れ』 というアドバイスを送ったとのこと。 復活したクロノマットの成功が、 どれだけ大きなものだったか。 この一言からも読み取れるかと思います。
またその後、1986年には強力な追い風が。 何かというと、映画トップガンの大ヒット。 これにより、ミリタリーファッションはさらに流行。 フライトジャケットを着た若者が急増しました。 こうしてクロノマットは、イタリアだけでなく、 世界中で愛される時計になっていったと。
結果、ブライトリングというブランドそのものも、 見事に復活させてしまったというわけです。
復活後のクロノマットのデザイン
本日はブライトリングクロノマットついて、 その誕生と復活のストーリー、見てきました。 復活後のクロノマットのデザイン、 2004年以降は、ルイジ・マカルーソに代わり、 エディ・ショッフェルという人物が担当しています。
エディは、元ジュエリーデザイナー。 建築をベースにしたルイジとは、 キャリアこそ異なりますが、 エルゴノミックに重点を置く点は同じです。 タグ・ホイヤーのセル、 それからカルティエ・サントス。 これらのメタルブレスレットをデザインした 実績があります。 セルはもうわかりやすくエルゴノミックとなります。
エディに引き継がれた後のクロノマットは、 時代のトレンドに合わせて大型化されました。 大きく重くなるほど、エルゴノミックが役に立ちします。
エディはケースやラグの形状、 そしてブレスレットに手を加えることで、 心地よい装着感を追求。 結果、ルイジ時代のクロノマットよりも、 大きく丸く、グラマラスでセクシーな形状へと進化しました。
現行クロノマットのエロい感じは、 エディの手腕によるものとなっております。
その後、2009年からは 完全自社製ムーブメントを搭載しています。 これはケースが大きくなったことで、 ムーブメントの自由度が増したことが大きいです。 小型の機械に拘らず、 プロ仕様と呼ぶにふさわしい時計とは何か。 オシャレ時計になっても、ここは決して外さない。 この姿勢は本当に素晴らしいです。
さらに2020年には、ルイジ時代を思わせる ルーローブレス仕様のモデルが復活。 今度は逆にダウンサイジングされ、 都会的な印象を楽しめるものになっています。
時代に合わせて、オシャレをも追求する姿勢。 これもまた、素晴らしい! クロノマットの進化、これからも楽しみですね!
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