※この記事はウォッチ買取応援団としてYoutubeにアップした動画、「Hモーザーの歴史|努力・冒険・開拓の精神でスイス・シャフハウゼンの今を作った男」の書き起こしです。
本日は、H・モーザーの歴史について、 お送りして参ります。 ブランドの創業は1828年。 ロシア サンクトペテルブルグで誕生し、 現在はスイス シャフハウゼンを拠点に 時計作りを行っています。
目次
「Less is more」 限りなく不必要なデザインと機能を無くす というメッセージを掲げ、 Swiss made という文字でさえ、 時にはブランド名ですら それは当たり前だろうといって消してしまう。
硬派な時計作りが魅力のブランドです。 現在どのグループにも属さず、 部品1つから自社で作っているということも、 非常に興味深い点です。
さて、ではこのブランド。 どのように誕生して、 どのように発展していったのでしょうか。 創業者はスイス人。 しかし、創業の地はロシア。 で、現在はスイス拠点。 ここだけ見ても、なにやら訳ありな予感。 ということで、調べてみたわけですが、 なかなか熱いストーリーがありました。
時計業界を超え、スイスの産業発展に 大きく関わった壮大な物語。 H・モーザーの魅力、 たっぷりお伝えしていきたいと思います。
現行ラインナップ名の秘密
まず歴史を辿る前に見ていただきたいのが、 現行モデルのラインナップです。 主要モデルは、3つのシリーズ。 時刻表示のみのシンプルなモデル・エンデバー。 ドイツ・バウハウスの意匠をベースに、 シンプルを極めたモデル・ベンチャー。
そして、防水ケースを採用した スポーツモデル・パイオニア。 実はこの3つ、創業者ハインリッヒ・モーザーの 偉大な功績へのオマージュであるということ、 ご存知でしたでしょうか。
努力を意味するモデル名を冠するエンデバーは、 彼の若き日の真摯な努力に対して 敬意を表したもの。 冒険を意味するベンチャーは、 新境地ロシアでの実績に敬意を表したもの。 そして、開拓を意味するパイオニアは、 スイスへと戻り、故郷の産業発展への 多大な貢献に敬意を表したものです。
つまり、H・モーザーというブランドを知るには、 努力・冒険・開拓という 3つの時代に分けて知っていくのが正しい。 そんなメッセージ、感じざるを得ません。 ということで、1つずつ見ていきたいと思います。
努力の時代
まずは、エンデバー。 努力の時代から。 H・モーザーの創業者ハインリッヒ・モーザーは、 1805年スイス・シャフハウゼンの伝統的な 時計師一家に生まれました。
幼いころから父と祖父の仕事を見て育ち、 15歳で本格的に時計師の道へ。父の工房で数年間学んだ後、 更なる可能性を求めて、 時計作りの聖地ジュラ地方にほど近い ル・ロックルへと移住してました。
修行の時代は、貧しい宿舎暮らし。 1日に18時間も働いたといいます。 その努力はやがて実を結び、若干21歳にして、 自身の工房を立ち上げるに至ります。
彼の作る時計は、すぐさま高い評価を獲得し、 スイス以外へも輸出されました。 特に高く評価されたのはロシアで、 ロマノフ朝の皇帝へ献上される置時計、 その機械の製造を一任されていたとのことです。
こうして、若くしてチャレンジし、 見事成功を収めたハインリッヒ・モーザー。 その後、故郷のシャフハウゼンへと戻ることを 選択しますが、ここで彼の人生を変える出来事が。
彼の思惑では、 ル・ロックルでの成功を掲げ凱旋帰郷。それまでの功績を武器に、 地元の時計産業も盛り上げていきたい。 そんな思いがありました。
しかし、シャフハウゼンの時計師協会は、 彼の帰郷を許さず。 戻ったとしても、時計師とは認めないという、 判断を下しました。 厳しい職人の世界。 しかも閉鎖された環境だったんでしょうね。 一度外に出た若者を、半端に受け入れることは できなかったのでしょう。
ハインリッヒ・モーザーは、 この判断に不満を持ちながらも、帰郷を断念。 新たな活躍の場を求め、 スイスを離れることを決意しました。
冒険の時代
ハインリッヒ・モーザーが選んだのは、 ル・ロックル時代に繋がりを持っていたロシア。 新天地でのベンチャー、 冒険の時代の始まりです。 この時代スイスからロシアに向かうには、 ドイツ経由でポーランドまで馬車で移動し、 そこから船に乗り換えるという。 ここもまさに冒険でした。
サンクトペテルブルグに到着したハインリッヒは、 1年間時計師として働いた後、 自らの会社 H moser & Co. を設立。これがブランドの起源となります。
創業初期は、複雑機構や装飾時計の販売を メイン事業として業績安定に専念。 実はハインリッヒ、 ル・ロックル時代にこうした商売のノウハウも 身に付けていたのだとか。
こうしてロシアでも軌道に乗った事業。 次なる展開は、時計を作って売るということです。
ここでも彼の真摯な姿勢が伺えます。 時計作りの拠点を、ロシアではなく、 スイスのル・ロックルに作ったんですよね。 かつて自身が時計作りを覚えた場所と、 作った時計を高く評価してくれた場所。 成長した自分が出来る恩返しとして、 この2か所を繋ぐ架け橋に、 自らがなったというわけですね。
さらに、ハインリッヒは、 ロシアのみならず、ヨーロッパ全土、 そしてアメリカ、アジアへと 販路を大きく広げていきました。
また、ロシア軍用の時計作りなど、 製造ジャンルの拡充も行っていきました。
結果、ル・ロックルの工場は、 多くの雇用を生み出すなど、 スイス時計産業の発展に大いに貢献。 その功績から、 ハインリッヒは、ル・ロックル名誉市民 の称号を得るに至ります。
ちなみにブランドの強みである、 部品1つからの自社製造マニュファクチュール。 その基盤が作られたのは、この時代です。
開拓の時代
新天地ロシアでも成功を収め、 故郷スイスでも認められたハインリッヒ。 1848年ようやく生まれた土地 シャフハウゼンに戻ることが許されます。 流石にもう40代。半端な若造ではない。
そして、功績も十分。 大手を振っての凱旋帰郷だったことでしょう。 生まれ育った故郷で、 時計産業の発展に貢献する。
かと思いきや、 シャフハウゼンに戻ったハインリッヒが 考えていたのは、そこに留まらず。 彼が考えていたのは、 旧態依然としたシャフハウゼンの産業全体を 発展させたいというものでした。
ということで、故郷に戻りながらも、 パイオニア、開拓の時代に入っていきます。
当時のシャフハウゼンの人々は、 農業と水路の荷運びを主な生業としていました。 製造業に携わっていたのは、 時計師など限られた人のみだったんですね。 しかし、食料の輸入が増えることで、 農業はジリ貧。 水路の荷運びの仕事も、 いずれ陸路が整備されればなくなってしまう。
ハインリッヒは、ここに気付いていたんです。 辺境の小さな町を、 新たな工業地帯へと発展させること。 これが、彼がシャフハウゼンへと 戻った大きな理由でした。
かくして、開拓の道を歩み始めたハインリッヒ。 目を付けたのは、ライン川の豊富な水量。 ここに水力発電所を作り、電気を安く提供したら、 皆がどんなに喜ぶことかと。 早々に運河の建設を発案しましたが、 ここでまた旧体質との戦いが勃発。 地元の政治家たちがこれに強く反対したそうです。
あの日、 帰郷を許されなかった若き日の苦い思い出。 自分の未熟さと、話が通じない大人へ、 強い苛立ちを覚えた20代。 またしても、野望は阻まれるかに思えました。
しかし、状況は一変。 多くの市民がハインリッヒのこの計画に 賛同したのです。 シャフハウゼンが変わった瞬間でした。 こうして1851年。 ハインリッヒは運河を完成させ、 80馬力のタービンの設置に成功。
そこで生み出された電力は、 近くの工場へと供給されていきました。 また、ハインリッヒは、 自らも鉄道車両の製造工場を新設し、 シャフハウゼンからチューリッヒ方面への陸路拡大 に大きく貢献していきました。
1865年には、スイス最大のダムの建設にも成功、 さらに低価格での電力供給が可能に。 やがて、海外からもその恩恵を受けるべく、 工業従事者が集まるようになりました。 その中に、時計ブランドIWCがあったことは、 有名なお話。
こうしてシャフハウゼンは、 ハインリッヒ・モーザーの手によって、 一大工業都市へと成長していったというわけです。
ハインリッヒの死後、20世紀に入ってからは、 ロシア革命による財産没収、 そしてクォーツショックによる大打撃と、 2度のピンチを迎えることに。 1979年には、廃業となってしまいます。 しかし、ハインリッヒ・モーザーの 努力・冒険・開拓の精神を、強く引き継ぐ者あり。
2005年には、IWCのエンジニアである ユルゲン・ランゲ博士と、 ハインリッヒの曾孫にあたる ロジャー・ニコラス・バルジガーの手により復活。 2012年以降は、ジュウ渓谷の名家メイラン家へと 経営権が引き継がれ、独立ブランドとしての 時計作りを再開しています。
といったところで、 H・モーザーの歴史と魅力について、 見てきました。
文字盤デザインが特徴的なので、 ついついそこにだけ目がいってしまうんですが、 ここにたどり着くまでには、 壮大なストーリーがあったんですね。
デザインにしても、機械にしても、 常に最先端を目指す姿勢。 創業者ハインリッヒ・モーザーの魂は、 今も強く根付いているものと思います。
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