2021.08.23

Hモーザーとは|スイス・シャフハウゼンの今を作った 革命的ブランドの歴史

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Hモーザー歴史のサムネ

※この記事はウォッチ買取応援団としてYoutubeにアップした動画、「Hモーザーの歴史|努力・冒険・開拓の精神でスイス・シャフハウゼンの今を作った男」の書き起こしです。

本日は、H・モーザーの歴史について、 お送りして参ります。 ブランドの創業は1828年。 ロシア サンクトペテルブルグで誕生し、 現在はスイス シャフハウゼンを拠点に 時計作りを行っています。

目次

H・モーザーの歴史について

引用:https://www.h-moser.com/

 「Less is more」 限りなく不必要なデザインと機能を無くす というメッセージを掲げ、 Swiss made という文字でさえ、 時にはブランド名ですら それは当たり前だろうといって消してしまう。

硬派な時計作りが魅力のブランドです。 現在どのグループにも属さず、 部品1つから自社で作っているということも、 非常に興味深い点です。

ブランドの歴史

引用:https://www.h-moser.com/

さて、ではこのブランド。 どのように誕生して、 どのように発展していったのでしょうか。 創業者はスイス人。 しかし、創業の地はロシア。 で、現在はスイス拠点。 ここだけ見ても、なにやら訳ありな予感。 ということで、調べてみたわけですが、 なかなか熱いストーリーがありました。

時計業界を超え、スイスの産業発展に 大きく関わった壮大な物語。 H・モーザーの魅力、 たっぷりお伝えしていきたいと思います。

現行ラインナップ名の秘密

まず歴史を辿る前に見ていただきたいのが、 現行モデルのラインナップです。 主要モデルは、3つのシリーズ。 時刻表示のみのシンプルなモデル・エンデバー。 ドイツ・バウハウスの意匠をベースに、 シンプルを極めたモデル・ベンチャー。

そして、防水ケースを採用した スポーツモデル・パイオニア。 実はこの3つ、創業者ハインリッヒ・モーザーの 偉大な功績へのオマージュであるということ、 ご存知でしたでしょうか。

現行ラインナップ名の秘密

引用:https://www.h-moser.com/

努力を意味するモデル名を冠するエンデバーは、 彼の若き日の真摯な努力に対して 敬意を表したもの。 冒険を意味するベンチャーは、 新境地ロシアでの実績に敬意を表したもの。 そして、開拓を意味するパイオニアは、 スイスへと戻り、故郷の産業発展への 多大な貢献に敬意を表したものです。

つまり、H・モーザーというブランドを知るには、 努力・冒険・開拓という 3つの時代に分けて知っていくのが正しい。 そんなメッセージ、感じざるを得ません。 ということで、1つずつ見ていきたいと思います。

努力の時代

まずは、エンデバー。 努力の時代から。 H・モーザーの創業者ハインリッヒ・モーザーは、 1805年スイス・シャフハウゼンの伝統的な 時計師一家に生まれました。

幼いころから父と祖父の仕事を見て育ち、 15歳で本格的に時計師の道へ。父の工房で数年間学んだ後、 更なる可能性を求めて、 時計作りの聖地ジュラ地方にほど近い ル・ロックルへと移住してました。

 

努力の時代

引用:https://www.h-moser.com/

修行の時代は、貧しい宿舎暮らし。 1日に18時間も働いたといいます。 その努力はやがて実を結び、若干21歳にして、 自身の工房を立ち上げるに至ります。

彼の作る時計は、すぐさま高い評価を獲得し、 スイス以外へも輸出されました。 特に高く評価されたのはロシアで、 ロマノフ朝の皇帝へ献上される置時計、 その機械の製造を一任されていたとのことです。 

見事成功を収めたハインリッヒ・モーザー

引用:https://www.h-moser.com/

こうして、若くしてチャレンジし、 見事成功を収めたハインリッヒ・モーザー。 その後、故郷のシャフハウゼンへと戻ることを 選択しますが、ここで彼の人生を変える出来事が。

彼の思惑では、 ル・ロックルでの成功を掲げ凱旋帰郷。それまでの功績を武器に、 地元の時計産業も盛り上げていきたい。 そんな思いがありました。

しかし、シャフハウゼンの時計師協会は、 彼の帰郷を許さず。 戻ったとしても、時計師とは認めないという、 判断を下しました。 厳しい職人の世界。 しかも閉鎖された環境だったんでしょうね。 一度外に出た若者を、半端に受け入れることは できなかったのでしょう。

ハインリッヒ・モーザーは、 この判断に不満を持ちながらも、帰郷を断念。 新たな活躍の場を求め、 スイスを離れることを決意しました。

冒険の時代

ハインリッヒ・モーザーが選んだのは、 ル・ロックル時代に繋がりを持っていたロシア。 新天地でのベンチャー、 冒険の時代の始まりです。 この時代スイスからロシアに向かうには、 ドイツ経由でポーランドまで馬車で移動し、 そこから船に乗り換えるという。 ここもまさに冒険でした。

冒険の時代

引用:https://www.h-moser.com/

サンクトペテルブルグに到着したハインリッヒは、 1年間時計師として働いた後、 自らの会社 H moser & Co. を設立。これがブランドの起源となります。

創業初期は、複雑機構や装飾時計の販売を メイン事業として業績安定に専念。 実はハインリッヒ、 ル・ロックル時代にこうした商売のノウハウも 身に付けていたのだとか。

こうしてロシアでも軌道に乗った事業。 次なる展開は、時計を作って売るということです。

次なる展開は、時計を作って売る

引用:https://www.h-moser.com/

ここでも彼の真摯な姿勢が伺えます。 時計作りの拠点を、ロシアではなく、 スイスのル・ロックルに作ったんですよね。 かつて自身が時計作りを覚えた場所と、 作った時計を高く評価してくれた場所。 成長した自分が出来る恩返しとして、 この2か所を繋ぐ架け橋に、 自らがなったというわけですね。

さらに、ハインリッヒは、 ロシアのみならず、ヨーロッパ全土、 そしてアメリカ、アジアへと 販路を大きく広げていきました。

また、ロシア軍用の時計作りなど、 製造ジャンルの拡充も行っていきました。

結果、ル・ロックルの工場は、 多くの雇用を生み出すなど、 スイス時計産業の発展に大いに貢献。 その功績から、 ハインリッヒは、ル・ロックル名誉市民 の称号を得るに至ります。

ちなみにブランドの強みである、 部品1つからの自社製造マニュファクチュール。 その基盤が作られたのは、この時代です。

開拓の時代

新天地ロシアでも成功を収め、 故郷スイスでも認められたハインリッヒ。 1848年ようやく生まれた土地 シャフハウゼンに戻ることが許されます。 流石にもう40代。半端な若造ではない。

開拓の時代

引用:https://www.h-moser.com/

そして、功績も十分。 大手を振っての凱旋帰郷だったことでしょう。 生まれ育った故郷で、 時計産業の発展に貢献する。

かと思いきや、 シャフハウゼンに戻ったハインリッヒが 考えていたのは、そこに留まらず。 彼が考えていたのは、 旧態依然としたシャフハウゼンの産業全体を 発展させたいというものでした。

ということで、故郷に戻りながらも、 パイオニア、開拓の時代に入っていきます。 

時計のイメージ

引用:https://www.h-moser.com/

当時のシャフハウゼンの人々は、 農業と水路の荷運びを主な生業としていました。 製造業に携わっていたのは、 時計師など限られた人のみだったんですね。 しかし、食料の輸入が増えることで、 農業はジリ貧。 水路の荷運びの仕事も、 いずれ陸路が整備されればなくなってしまう。

ハインリッヒは、ここに気付いていたんです。 辺境の小さな町を、 新たな工業地帯へと発展させること。 これが、彼がシャフハウゼンへと 戻った大きな理由でした。

かくして、開拓の道を歩み始めたハインリッヒ。 目を付けたのは、ライン川の豊富な水量。 ここに水力発電所を作り、電気を安く提供したら、 皆がどんなに喜ぶことかと。 早々に運河の建設を発案しましたが、 ここでまた旧体質との戦いが勃発。 地元の政治家たちがこれに強く反対したそうです。 

帰郷を許されなかった若き日の苦い思い出

引用:https://www.h-moser.com/

あの日、 帰郷を許されなかった若き日の苦い思い出。 自分の未熟さと、話が通じない大人へ、 強い苛立ちを覚えた20代。 またしても、野望は阻まれるかに思えました。

しかし、状況は一変。 多くの市民がハインリッヒのこの計画に 賛同したのです。 シャフハウゼンが変わった瞬間でした。 こうして1851年。 ハインリッヒは運河を完成させ、 80馬力のタービンの設置に成功。 

Hモザーのイメージ

引用:https://www.h-moser.com/

そこで生み出された電力は、 近くの工場へと供給されていきました。 また、ハインリッヒは、 自らも鉄道車両の製造工場を新設し、 シャフハウゼンからチューリッヒ方面への陸路拡大 に大きく貢献していきました。

1865年には、スイス最大のダムの建設にも成功、 さらに低価格での電力供給が可能に。 やがて、海外からもその恩恵を受けるべく、 工業従事者が集まるようになりました。 その中に、時計ブランドIWCがあったことは、 有名なお話。

こうしてシャフハウゼンは、 ハインリッヒ・モーザーの手によって、 一大工業都市へと成長していったというわけです。 

ロシア革命による財産没収

引用:https://www.h-moser.com/

ハインリッヒの死後、20世紀に入ってからは、 ロシア革命による財産没収、 そしてクォーツショックによる大打撃と、 2度のピンチを迎えることに。 1979年には、廃業となってしまいます。 しかし、ハインリッヒ・モーザーの 努力・冒険・開拓の精神を、強く引き継ぐ者あり。

2005年には、IWCのエンジニアである ユルゲン・ランゲ博士と、 ハインリッヒの曾孫にあたる ロジャー・ニコラス・バルジガーの手により復活。 2012年以降は、ジュウ渓谷の名家メイラン家へと 経営権が引き継がれ、独立ブランドとしての 時計作りを再開しています。

H・モーザーの歴史と魅力

引用:https://www.h-moser.com/

といったところで、 H・モーザーの歴史と魅力について、 見てきました。

文字盤デザインが特徴的なので、 ついついそこにだけ目がいってしまうんですが、 ここにたどり着くまでには、 壮大なストーリーがあったんですね。

デザインにしても、機械にしても、 常に最先端を目指す姿勢。 創業者ハインリッヒ・モーザーの魂は、 今も強く根付いているものと思います。 

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