2020.11.18

【基礎知識 vol.18-19】クォーツショックとは|腕時計の基礎知識・基礎用語

基礎クォーツショック

※この記事はウォッチ買取応援団としてYoutubeにアップした動画、「クォーツショック(序章)セイコーが図った普及戦略とは」および「クォーツショック(終章)スイスウォッチの逆襲」の書き起こしです。

腕時計初心者の方向けに、毎週1ワードずつ、時計の基礎知識・基礎用語をお伝えしていくシリーズ。今回のテーマは、『クォーツショック』。

クォーツショックとは、1970年代に起こった時計業界の歴史的イベント。日本のセイコーが開発したクォーツ式時計によって、それまで贅沢品だった腕時計が日用品へと変わった大革命。

時計ブランドの歴史を勉強していくと、必ずと言っていいほど登場する出来事なので、基礎知識としてぜひ覚えておいていただきたいキーワードです。

クォーツショックとはなんだったのか。クォーツショックが起こるまでの流れ、そしてその後スイスで起こった機械式時計復活ストーリー、お伝えしていきます。

目次

▼動画でもご覧いただけます

クォーツショックとは

さて、まずは冒頭でも少し触れた、クォーツショックとはなにか、ということについてお話していきます。クォーツショックとは、1969年から始まる時計業界の大変革時代のこと。その引き金になったのは、セイコーが発表したアストロンという時計でした。

それまでの腕時計といえば、機械式の独壇場。そこに突如現れたクォーツ式の時計。クォーツ式というのは、電池から水晶振動子という部分に動力を伝え、それを電子回路で制御し、時間を刻むという仕組みです。

仕組みや特徴については、基礎知識『機械式vsクォーツ式』の回をご覧いただければ幸いです。

で、それが一体なにをしたんだというと、大きくは3つ。

  • 連続駆動時間の大幅延長
  • 月差数秒という高精度の実現
  • 製造コストの大幅ダウン

これにより、誰もが気軽に『正確な時計』を所有することができるようになった、というわけです。

電池を動力に

では、そのクォーツウォッチ。一体どのようにできていったのでしょうか。

クォーツウォッチ誕生の背景には、機械式時計の弱点の一つである、連続駆動時間の短さを克服しようという試みがありました。

機械式の動力源は、ゼンマイですが、時計内部に仕込める量が限られています。現代においても数日単位、長いものでもせいぜい1週間ほどが限界です。

これを何とかしようとしたのが、ハミルトンそしてブローバというブランド。両ブランドは、ゼンマイの代わりに電池を動力源に使い、数か月間止まらない時計の開発に成功します。

が、電池式の時計は、電池で機械を動かすという単純な作りであったため、接点不良など多くの問題があり、普及には至りませんでした。

電池を動力に

引用:https://ja.wikipedia.org/

クォーツ式に目を付けたセイコー

片や、連続駆動時間を延ばす方法として、もう一つ注目されていたのがクォーツ式でした。ここに注目したのが、セイコーというブランドでした。

しかしながら、こちらはこちらで問題だらけ。クォーツ式の時計というのは、実は1927年から存在していましたが、装置が大掛かり過ぎるということと、気温によって時間が狂いやすいという、2つの大きな弱点がありました。

引用:https://pixabay.com/photos/ginza-wako-tokyo-architecture-725794/

小型化された高精度時計

だがしかし、ポテンシャルはある!として、1932年、東工大チームとアメリカのベル研究所によって、温度による時間差を生じにくくする方法『ATカット』と、時計内部の温度を一定に保つ装置が考案されます。

1947年には、真空管に代わるパーツ・トランジスタが登場したことによって、小型化がなされ、業務用冷蔵庫くらいのサイズにまで落ち着きました。

1950年代には、セイコーによってさらに小型化が進められ、少年ジャンプ20冊分くらいの置時計サイズにまで進化。精度も平均日差で0.8秒以内と、機械式時計の性能を大きく上回るものに。こちらは実際に売り出され、鉄道や船舶で使われていました。

小型化された高精度時計

引用:https://ja.wikipedia.org/

こうして見ると、元々大型だったところから、技術が進んで小型化していったという流れにおいては、機械式時計が歩んだ歴史と同じような感じなんですね。

こうした経緯の中で、クォーツ式の時計が家庭用として普及したのは、1968年のこと。乾電池2本で動く置時計で、精度は日差1秒以内というものでした。

機械式で目指せる精度は、現代においても日差±2秒程度です。クォーツ式時計は、約50年前にそれを上回る精度を持っていたというから、驚きですね。

革命前夜

さて、小型化が進む高精度クォーツ式時計。家庭用として置き時計を販売していた裏で、セイコーはある大きな事件を起こしていました。

なにかというと、1967年のヌーシャルテル天文台精度コンクール上位独占。当時は、日差10秒以内であれば高精度と呼ばれた時代です。セイコーは、そこにクォーツウォッチの試作品を送り込み、日差1~2秒という数字を記録。1位~3位を独占してしまいました。

これまでの精度競争とは、一体なんだったのか。セイコーのクォーツウォッチは、スイスの歴史的な精度コンクールを無意味なものにしてしまったのです。

ショックを受けたヌーシャルテル天文台は、この年を最後にコンクールを取りやめることに。革命前夜の出来事でした。

革命前夜

引用:https://www.seikowatches.com/

アストロンの登場

こうして、家庭用の置き時計普及と、有名コンクールでの上位独占で準備を整えたセイコー。1969年にクォーツ式腕時計アストロンを発売するに至ります。

アストロンの発売時の価格は45万円。トヨタのカローラと同じくらいの価格。決して安くはなく、機械式の高精度ウォッチと変わらない価格。

と、これだけでは、単なる新技術で終わっていたことでしょう。クォーツショックがなぜ革命となったのかは、この後のセイコーの動きにありました。

アストロンの登場

引用:https://ja.wikipedia.org/

クォーツショックの幕開け

アストロン発売後、セイコーはクォーツウォッチ普及のための戦略に乗り出します。技術者と販売員でチームを組み、世界中の販売店に向けて、クォーツウォッチの技能講座を開設するなど、PR活動に邁進。

さらに、大胆な施策を実行します。クォーツウォッチの特許技術を有償で公開したのです。これこそが、クォーツショックの幕開けでした。

セイコーの普及戦略によって、クォーツウォッチはどのメーカーにおいても、同じ精度のものが製造可能に。生産数、販売数ともに大きく成長し、価格も急激に安価になっていきました。

結果、この時、機械式時計のみに力を注いでいたブランドは、軒並み経営状況が悪化。この時期に消えていったブランドは、数知れず。スイスの時計業界は、ほぼ壊滅状態になってしまったというわけですね。

機械式時計復活へのアプローチ

引用:https://www.vacheron-constantin.com/

機械式時計復活へのアプローチ

1970年代は、クォーツの製造に遅れを取ったスイスの時計ブランドが、軒並み経営不振に陥っていきます。しかししかし!皆さんご周知の通り、クォーツショック後、機械式時計が無くなってしまったかというと、そんなことはない!

そうなんですよ。しっかりと息を吹き返しているんですよね。

では、一度はピンチに陥ったスイス時計業界は、一体どうやって今に時代を繋ぐことが出来たのでしょうか。

スイスが取り組んだ機械式時計復活へのアプローチは2つ。

1つは、グループの再編成。そしてもう一つは、デザイナーの起用でした。

グループの再編成

ひとつずつ見ていきましょう。まずは、グループの再編成ですね。

スイスにおける伝統的な時計作りというのは、分業によるものです。設計図は時計師Aさんが作って、歯車とゼンマイはB社が製造。組み立てをC社が担当して、外装はD社が作る。こんな感じで1本の時計が出来ていきます。

そして分業というスタイルは残しつつ、離れていた作業者を一つ屋根の下に集めて、みんなで一緒に作っていこうじゃないか、と動いたのが19世紀に創業し、効率化を求めたブランドたち。

先駆けてマニュファクチュール化に取り組んだジャガー・ルクルトや、組み立てによる時計作りを可能にしたオメガ。水力発電を利用した工場での量産を可能にしたIWCあたりが有名どころです。

ジャガー・ルクルトにしても、オメガにしても、IWCにしても、他のブランドとの協力体制を作っており、クォーツショック到来時には、既にグループでの製造を行っていました。

しかし、それでは対応しきれず。さらなる効率化を求め、グループの再編成を行っていくことになります。

グループの再編成

引用:https://www.omegawatches.jp/ja/

ニコラス・G・ハイエック

クォーツショック後、もっとも大きな動きとなったのは、スウォッチグループの誕生です。

指揮をとったのは、時計業界の偉人の一人ニコラス・G・ハイエックという人物。もともとは時計業界の人ではないのですが、クォーツショックによってピンチとなったムーブメントメーカーETAによって招聘。スイスの時計業界の復活に乗り出します。

この方、とんでもないやり手でして、1983年には、クォーツ式を用いた新ブランドスウォッチを発表します。皆さんご存知の超有名ブランドですよね!

ハイエック氏は、日本から来たクォーツウォッチを単純に嫌うのではなく、スイスのクオリティで作り直して、スイスのものにしてしまえばいいじゃないかと考えたんですね。結果スウォッチは、世界中で売れる大ヒット作となりました。

ニコラス・G・ハイエック

引用:https://www.omegawatches.jp/ja/

巨大グループにより新体制

ハイエック氏はその後、オメガやティソ、ロンジンなどを束ねるSMHグループと、スウォッチひきいるETAなどのムーブメントメーカーを合流させ、巨大組織スウォッチグループを誕生させるに至ります。

巨大なグループとなったことで、クォーツ式機械式問わず製造工程が効率化。さらに、販売店も自グループで経営するなど、流通においても効率化を行ったことで、良いものを安く提供する体制を整えていきました。

スウォッチグループ以外では、リシュモングループの登場が1988年。そして、独立時計師の集合組織『アカデミー』の誕生が1985年です。

皆でより良いものを作っていこうじゃないか!と、時計人たちの協力体制が強固になっていったのは、クォーツショックがあったからこその流れなのではないでしょうか。

巨大グループにより新体制

引用:https://www.omegawatches.jp/ja/

デザイナーの起用

続いて、スイスの時計業界が取り組んだ、機械式時計復活へのアプローチ2つ目は、デザイナーの起用です。

クォーツショック以前の時計業界には、デザイナーという職種がなく。貴族用のアート作品の様な時計はまた別ですが、当時の実用時計デザインは、機能に合わせたものが主流でした。

デザインするというよりも、使用環境に最適化するといった感じだったんですね。しかし、それでは実用性能が優れるクォーツウォッチには到底勝てない。

いち早く動いたのは、スイス・ジュラ地方の雄 オーデマ・ピゲというブランドでした。

オーデマ・ピゲは、新しい時計のデザインを、当時まだ売り出し中だったデザイナー ジェラルド・ジェンタ氏に依頼。そして、1972年に登場したのが、かの有名なロイヤルオークです。

デザイナーの起用

デザインで価値を生み出す

このロイヤルオークの登場は、クォーツ式時計では満たすことが出来なかったニーズに応えることとなります。それが、休日を楽しむ富裕層向けという新たなジャンル・ラグジュアリースポーツです。

ジェンタ氏は、その後もパテック・フィリップ ノーチラスや、ブルガリ・ブルガリのデザインを手がけ、今も残る数多くの名作ウォッチを世に送り出していきます。

ジェンタ氏のこの功績は、同時に、時計デザイナーという職種をも作り上げ、以降、デザイナーがデザインした時計というものに、人々は大きな価値を感じるようになっていきました。

アラン・シルベスタイン、マックス・ビルなど、デザイナー名が時計の名前になりヒットしたケースも、ジェンタ登場以降で出来た流れになります。

名門と名作の復活

さて、グループの再編成による効率化と、時計デザイナーの登場。この2つのアプローチから、どこに繋がっていったのかという話で、まとめていきたいと思います。

グループ再編成では、製造および販売が効率化され、より良いものを安い価格で提供できるようになりました。そして、デザイナーの登場によって、時計の価値は機能に寄ったものではなくなりました。

これらによって、1980年代後半以降は、機械式時計のニーズも徐々に回復。ブレゲやブランパンなど歴史的な名門ブランド、そしてエル・プリメロやモナコなど、クォーツショック以前に登場した名作も、次々に復活を遂げていきます。

面白いのはこの時代、セイコーも機械式時計の製造を再開していたということ。しかも、一度思いっきりクォーツに舵を切ってしまったため、機械式の復活には相当な時間と労力が必要だったといいます。

今度はスイスに上手く仕掛け返されてしまったというわけですね。

こうして、1969年から始まったクォーツショックは、90年代には幕を閉じていくこととなります。

名門と名作の復活

引用:https://www.blancpain.com/ja

現在は、機械式とクォーツ式、それぞれ違った価値を持つもの、違うジャンルのモノであると認知されていますよね。

それぞれの良い所を楽しむ。そんな時代になっていると思います。